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現代を活きるプラス 宮永美寿津さん

ページID:0038017 更新日:2022年11月30日更新 印刷ページ表示

宮永美寿津さん

宮永さん

インタビュー

栃木国体馬術トップスコアで5位に入賞した宮永美寿津さんにお話をお聞きしました。

祖父の影響で馬術の道へ

小さい頃から動物好きだったので、中央競馬の馬主であった祖父と一緒に、幼少期から牧場などを見学して馬と触れ合っていました。

10歳の時、祖父の勧めで桑園の乗馬スポーツ少年団に入団。毎週土日に朝6時45分のJRに乗って通う生活を高校3年生まで続け、大学に進学してからも馬術を続けたかったので、馬術部のある大学の中から立教大学に進学しました。

大学に進学し初国体

大学馬術部時代は、祖父が馬主だったミヤノリュウオーとパートナーを組み、数々の競技会に参加。

国体では、卒業中学校か高校のある都道府県をふるさととして登録すると、その都道府県の選手として国体に出場できる「ふるさと選手制度」があり、2010年にその制度を活用して北海道の国体予選で優勝することができ、千葉県で開催された国体に初参加しました。千葉国体では少年団時代の先生であった大林さんの馬に騎乗させてもらい、ダービー競技4位入賞、翌年開催された山口国体でもその馬で標準障害3位に入賞しました。

馬術部の監督は、「馬術部での生活は社会に出るための練習」として、馬術の技術だけでなく、部活の経営や人との関わり方を重視して指導いただきました。その甲斐あって、今の私が馬術の世界で続けられているのは、当時の指導が生きていると思っています。立教大学は関東学生馬術協会に所属しており、他大学と関わることが多く、当時一緒に競技していた選手たちの中には現役のオリンピックの選手や国体選手も数多くいて、今でも交流が続いています。

ミヤノリュウオー

愛馬のミヤノリュウオーと

北海道に戻り

千葉国体翌年の2011年、高齢となったミヤノリュウオーと共に北海道に帰ることを決め、宮永建設に入社する予定でしたが、千葉国体の北海道監督であった楠木さんに誘われてノーザンホースパークに就職し、30歳までの期限を決めて馬術を続けることに。ノーザンホースパークでは、ライディングショーのショーライダーや乗馬のインストラクター、競走馬を一般乗馬できるよう調教するリトレーニングを仕事としながら、自身の馬術の練習も行っていました。

2014年には楠木さんが仁川アジア大会に挑戦することが決まり、予選からグルームとしてサポートを依頼され、グルームは日々の馬のケアを行い、試合で良いパフォーマンスを引き出す重要な役割のため、30歳までと決めていた期限を延期。アジア大会に日本チームのサポートとして参加し、銀メダルを獲得することができました。

日本に帰国後も楠木さんに続けてほしいと頼まれノーザンホースパークに引き続き所属、この間も継続的に選手として国体に参加するなど馬術漬けの毎日でしたが、2019年に当別に戻り宮永商事に入社しました。

仁川アジア大会

仁川アジア大会で楠木さんのサポート

会社員と馬術の2足のわらじを

当別に戻ってからも馬術を続けるため、ノーザンホースパークの退職金で、若くて素質のある馬を購入。安平町の乗馬クラブに預けて、月水金は早朝に自馬の世話をしてから会社に出社、土日祝日に騎乗と障害練習を続け、練習の合間には乗馬クラブのインストラクターも務めています。今年の栃木国体は、レッスンを担当している方がオーナーの馬で参加させていただき、初めて出場する種目、トップスコアで5位に入賞することができました。これも馬術を続ける環境をつくってサポートし、理解してくれる家族と会社のおかげと、とても感謝しています。

また、大学時代に人との関わりの大切さを教わり、笑顔で挨拶をすること、困っている人がいたら手伝うことを意識した結果、多くの方々との繋がりが拡がり、昨年から日本馬術連盟の最年少の理事に就きました。来年は北海道のノーザンホースパークで6年ぶりに全日本障害馬術大会も開催されるので、より一層練習に励みます。

栃木国体

栃木国体トップスコアで高難度のジョーカー障害を飛越

北海道チーム

栃木国体北海道馬術チーム

将来の夢は

近い目標は来年の全日本と国体に出場し入賞すること、将来は馬術をもっとメジャーなスポーツにすることが目標です。

馬術は馬というパートナーがいないと成り立たないスポーツです。馬は生き物なので馬の気持ちや体調によっては、うまくできないこともあります。お互いに信頼し合うことが大切です。私にとって馬は家族同様、かけがえのない存在です。